井上靖

河北省南西部の元氏という小さい部落でわれわれは崩れかかった城壁の上にせっせと土嚢を積んだ。やがて何時間か後には行われるであろう敵襲に備えて、おのおの自分の前の砦を補強するために忙しい日没の一刻を過していたのだ。その時の不思議に静かな薄暮の訪れを、初冬の平和な村々の茂りを、遠く地平のあたりを南下して行った烏の大群を、そして遥か西方の山裾にしきりに打揚げられる烽火の煙を、あるいは又その時われわれ三人が交したひどく屈託のない会話を、それら一切をいま思い出すことのできるのは私ひとりである。右の友も左の友も、その翌日からはこの世にいないのだ。あの夜にはいったい何が行われたと言うのか。激戦――そんな濁った騒がしいものは微塵も起りはしなかった。運命の序列、そうだ、われわれが持っていてしかも知らない己が運命の序列を、仮借なくつきつけて見せるひどく冷たいものが、あの夜の闇の中を静かに、だが縦横に走っていたのだ。そして硫酸のような雨が音もなく、併しこやみなくわれわれの精神の上に降り注いでいたのだ。